| 02.親父と「出会い」 03月24日 18:08 |

- ワシントン講演(再録6)

干しにしん
この鰊に関してもいままで様々な事がいわれてきました。今ではそんなまことしやかな話を、どうどうとする人はあまり見かけなくなりましたが、正直申し上げましてかなりいい加減でございました。

会津にも鰊の料理があるのは。京都守護食などの関係であるとか、あるいは文化年間に会津藩が北方警備などの際に持ち込こまれたのだとか、誠にいい加減です。歴史上の事件と結び付けたくなる心情は、私も会津人ですから、 わからないわけでもありませんが如何かと思うのであります。

会津に鰊がくることになったのは、北前船の運航によるものです。江戸時代以前、まだ北前船航路が無い時代、蝦夷地の海産物や特産品を東北地方へ持ち込んだのは、アイヌだと言われています。交易といっても物物交換的な性格が強かったらしく、米一俵と干し鮭百本というのが交換の基準であったと記録にあります。

しかしアイヌが他の海産物や物産をいくら持ち込んだといっても、当時の運送手段から見ればたかが知れていたであろうし、一般の人々の食生活や食文化にまで影響を及ぼしたとは考えにくいものがあります。

そもそも北前船の初期は、近江商人たちがこの航路を開拓しますが、その期限は関が原にあります。近江商人は、関ヶ原の戦いの折り東軍徳川方へ鉄砲三千挺を寄進し、勝利に大いに貢献したとして、その見返りに商業活動上の多くの特権を手に入れます。

その特権のおかげで日本全国どこでも自由に商業活動を展開することができようになりましたした。当時未開の地であり、豊富な資源に恵まれた蝦夷地は、大きなビジネスチャンスを秘めており、彼らにとっては魅惑の土地であったであろうとおもわれます。

やがて、松前藩からも場所請負人として開発の様々な特権を得た彼らは、豊富な蝦夷地の物産を北前船で大量に本土へ持ち込みはじめます。近江商人の中でもこの蝦夷地開拓に関わった人たちは松前組と呼ばれていました。

「松前組中算用帳」といわれる近江商人の残した記録によれば、享保二年の年初めて五千俵の鰊が本土に持ち込まれたと書かれています。どうも享保年間前後が会津に鰊が入るきっかけで在ります。

享保年間というのは江戸時代の中ごろであります。これ以後頃会津へは、新潟港を基点に川を利用したり、荷馬車や人の背に担われて、日本海側から大量に持ち込まれはじめます。

幕末頃や明治期になりますと、鰊の相場は会津と京都で決まるとまでいわれ、明治期には会津の町に大きな海産物問屋も出現し、会津から各地へ鰊をはじめとする海産物が売りさばかれたといわれていきます。


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