しかしそういうことを可能にした自然環境というのもあります
皆さんもこの地に暮らしてみて感じることと思いますが
会津は内陸部、① 冬積雪はあるものの比較的温暖な地域
②台風などの影響をあまり受けにくい地域
③1万年前は湖だった会津盆地の堆積層が形成する豊かな土壌
③日本海へ流れる鮭や鱒などの河川の恵み
というような自然環境のおだやかさもその大きな理由であると思います。しかしそののち会津の食文化も複雑で様々な影響を受けながら形を形成してまいります。
それが記録の上で少しずつ出てきますのが室町時代の塔寺異本長帖のなかの記述です。長禄年間の記述に松本肥前という豪族を赤飯と素麺でもてなした記述がございます。これが私が見たもっとも古い食事の記録であります。
もう少し明確になるのは戦国期を待たなければなりません。室町それ以前、日本に物を煮るという食文化が定着するのは鎌倉期とも室町の初期とも言われています。
今日話題になっております、こづゆもいわば煮る料理です。物を煮るためには「鍋」という道具が必要です。この鍋は鎌倉時代に中国から禅宗の伝来と共に伝わったといわれています。当時の武士階級は鎌倉幕府に見られますように禅宗の物の考え方や生活様式にいたるま、影響を受ける事となります。
特に会津は時代が下がりますが、芦名の時代に後の世に日本の生活様式の規範となる小笠原流の洗礼を早く受けた事がわかっています。東山慶山の大竜寺に小笠原流中興の祖、長時のお墓が残っております。時間がございましたら一度訪ねてください。
小笠原長時という人物は信州松本に勢力を持つ戦国大名でありました。なぜ会津に小笠原長時のお墓があるのかといいますと、今NHKテレビドラマで、話題の武田信玄が山本幹助の采配の元、信濃侵攻を企てる話を放映しております。
ところが当時信濃の国の戦国大名小笠原も源氏の流れを汲む名門、壮絶な戦いをして抵抗を致します。
武田を苦しめますが、やがては戦いに敗れ越後に落ち延びます。
上杉の食客となります。この一族の中から徳川の家臣として仕えたものが後の九州小倉の幕末まで続いた小笠原家であります。この小笠原長時は、食客にはなったものの、謙信と折り合いが悪かったのか、どういう理由か定かではありませんが、その後諸国を浪々とした後、会津に入ってくるわけであります。
最初南会津の河原田氏を頼りますが後ほど芦名を頼り今の稲の代(現在の米代)というところに屋敷を構えます。芦名の家中に弓、馬術、礼式、食作法など様々なことを伝えたといわれています。