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| 02.親父と「出会い」 03月26日 08:32 |
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最後に、天保九年,幕府 最後の諸国巡検使が来訪します。その時の若松宿泊の献立を皆さんに見ていただきます。宿泊場所はお宿屋敷とよばれ今の上町ゴリラビルのところにありました。残念ながらこの献立の書かれた原本は,持ち主の方が紛失してしまいました。
この料理を最初に復元いたしましたのは、昭和61年の年でありました。それから何度か再現しておりますがそのたびに様々な事がわかってきます。この写真には4つのお膳がのっておりますが、一度に出たわけではありません。
膳椀は「いっかけ」と申しまして黒塗りのお膳に縁に金がぬられたものを使用した事がのちほどわかってきます。その上には敷き紙と申しまして、折られた紙がしてあったようです。このあたりにも扱いが特別な事が見て取れます(神事にちかい・・)
最初に真ん中のお膳が出て、そのあと休憩があり、酒の肴膳が出てまいります。必ず吸い物や汁物がつきます。真ん中の本膳の上にありますのが、硯蓋という料理です。
注目していただきたいのが本膳の真ん中にあります
坪の中身です。何だか不気味なものが入っておりますが。これ干しなまこですとうじ「金子」とよばれ珍重されました。
江戸初期からの中国との貿易で、あまりにも金と銀が中国へ流失してしまいます。あわてた徳川幕府は金に換わるものを探します。中国側から要求されたのがほしなまこ、ほしあわび、ふかひれの3品でした。
いずれも中華料理の中でも最も高級な食材です。幕府はこの3品を専売品としてその生産、加工、流通にいたるまで管理します。これらは「俵物」と呼ばれ、大阪にはこのための会所ができました。
今の大阪駅の近くらしいのですが「俵物会所」と呼ばれたらしいです。ここから長崎に送られ中国に輸出します。つまり金と同じ位の価値があったわけであります。
会津藩は会津にきた幕臣に対しては、破格のもてなしを致しますがそんなことが献立にも現れております。

| 02.親父と「出会い」 03月25日 17:33 |
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しかし幕末まで会津へは主に新潟からはこばれてきておりました。 弘化四十年十二月十六日の暮れも押し迫った頃、会津領の阿賀野川貝喰という難所で、越後からの商人四十四人を乗せた下り舟が転覆し多数の死傷者を出す事故が起きたことがあります。
この時の溺死者のほとんどは、越後よりの鰊売りの娘たちであったといわれています。いずれも五ヶ浜辺りの貧しい漁村の娘たちで、会津へ年取りのために使う鰊を売りにきた帰りにこの事故に遭っているわけであります
。
会津藩の記録にも、寛政二年頃から鰊売りの娘たちが城下にあらわれたと記録されています。赤い前垂れをした塩汲み姿で、桶二つに鰊を詰め、天秤棒にさげて「鰊いらしゃりませんかぇー」と唱えながら市中を売り歩いたという。なかなか色っぽかったらしく、文政年間に編纂された「徒ノ町百首俗歌」の中にも、下級武士と鰊売りの娘たちとの人間くさいドラマが狂歌として詠まれています。
文化年間前後になりますと本郷焼も隆盛期を迎えます。又人別長などを見ておりますと、醤油や味噌の醸造が盛んになってまいります。県立博物館にこの時代の年号が入った鰊鉢がありますがすでにこの時代に「鰊の山椒漬け」は完成していた事がわかります。
おそらく様々な偶然がこの会津を代表する郷土料理を無理のない形で生み出されたと想像するわけであります。
話は変わりますが、鰊の山椒漬けになぜ山椒の葉を使用するか考えてみた事がおありでしょうか。なぜでしょうか?いささか汚い話になりますが。山椒の香や味付けのために用いられたというのは残念ながら本来の目的ではありません。
冷蔵庫が無い時代醸造業の大敵は「ショウジヨウハエ」であります。桶の周りに匂いに寄せられて卵を産み付けます。山椒の葉はその虫除けのためだったのです。
味や香は2次的なものです。又鰊の油は灯明用として使われました。その搾りかすが肥料として大量に本土に持ち込まれます。 天明期の蝦夷地では、食用以外の農業用肥料として鰊粕の生産もさかんになります。
天明の頃、諸国巡見使一行とともに、東北、蝦夷を訪れた古川古松軒の著わした「東遊雑記」に、この辺りに触れた記述があります。 「数の子は全国に出回り、魚肥としての干し鰊は昔は北国だけであった。いまは近江近在五磯内、両国筋まで田畑の養となす。干しいわしより理方よしという、関東いまだこの益あるをしらず」と書き残している。どうも関東方面には食料としても肥料としてもあまり出回らなかったようであります。
江戸前の新鮮な魚介類、千葉沖の大量に取れる鰯の漁獲とも相まって、江戸では鰊は軽視されます。従って調べてみますと、江戸時代に江戸市中で発刊された料理書には、鰊はほとんど登場しません。会津や京都周辺に似た食文化があるのも、このような視点から見ればうなずけます。

| 02.親父と「出会い」 03月24日 18:08 |
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この鰊に関してもいままで様々な事がいわれてきました。今ではそんなまことしやかな話を、どうどうとする人はあまり見かけなくなりましたが、正直申し上げましてかなりいい加減でございました。
会津にも鰊の料理があるのは。京都守護食などの関係であるとか、あるいは文化年間に会津藩が北方警備などの際に持ち込こまれたのだとか、誠にいい加減です。歴史上の事件と結び付けたくなる心情は、私も会津人ですから、 わからないわけでもありませんが如何かと思うのであります。
会津に鰊がくることになったのは、北前船の運航によるものです。江戸時代以前、まだ北前船航路が無い時代、蝦夷地の海産物や特産品を東北地方へ持ち込んだのは、アイヌだと言われています。交易といっても物物交換的な性格が強かったらしく、米一俵と干し鮭百本というのが交換の基準であったと記録にあります。
しかしアイヌが他の海産物や物産をいくら持ち込んだといっても、当時の運送手段から見ればたかが知れていたであろうし、一般の人々の食生活や食文化にまで影響を及ぼしたとは考えにくいものがあります。
そもそも北前船の初期は、近江商人たちがこの航路を開拓しますが、その期限は関が原にあります。近江商人は、関ヶ原の戦いの折り東軍徳川方へ鉄砲三千挺を寄進し、勝利に大いに貢献したとして、その見返りに商業活動上の多くの特権を手に入れます。
その特権のおかげで日本全国どこでも自由に商業活動を展開することができようになりましたした。当時未開の地であり、豊富な資源に恵まれた蝦夷地は、大きなビジネスチャンスを秘めており、彼らにとっては魅惑の土地であったであろうとおもわれます。
やがて、松前藩からも場所請負人として開発の様々な特権を得た彼らは、豊富な蝦夷地の物産を北前船で大量に本土へ持ち込みはじめます。近江商人の中でもこの蝦夷地開拓に関わった人たちは松前組と呼ばれていました。
「松前組中算用帳」といわれる近江商人の残した記録によれば、享保二年の年初めて五千俵の鰊が本土に持ち込まれたと書かれています。どうも享保年間前後が会津に鰊が入るきっかけで在ります。
享保年間というのは江戸時代の中ごろであります。これ以後頃会津へは、新潟港を基点に川を利用したり、荷馬車や人の背に担われて、日本海側から大量に持ち込まれはじめます。
幕末頃や明治期になりますと、鰊の相場は会津と京都で決まるとまでいわれ、明治期には会津の町に大きな海産物問屋も出現し、会津から各地へ鰊をはじめとする海産物が売りさばかれたといわれていきます。

| 02.親父と「出会い」 03月22日 09:25 |
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そんな中でこづゆはこの「煮る」という料理の一部だったと考えられます。
こづゆは元々は中国から伝わった精進料理だったと私は見ております
寺院から武家社会へ様々なものが伝わり、そのなかで食作法や料理の技術的なものまで伝わったと見るのが自然な流れです。
鎌倉以前の延喜式や食事の記録を見ますと。大抵は蒸すか焼くあるいは鱠のような生ものです。室町時代鉄でできた鍋は大変高価なものだったといわれています。
この鍋で物を煮る調理法は日本人の食生活に革命を起こしたといわれています。おそらく京都や奈良の寺院で修行した僧たちが地方に定住布教するなかで伝わっていった流れもあるかとも思います。
又全国にこづゆに煮た料理は数多くあります。その代表的なものが新潟の「のっぺ」(右上写真)です、今日私の友人がワシントンで話をするといいましたら、この「のっぺ」を持参してくれました。
この「のっぺ」言われるものは、京都や奈良にもあります。又、様々な呼び名でありますが、似たものは全国各地にあります。今回の会津の古い時代のこづゆの記録をたくさん見てますと、どうも食材だけからですと、こづゆが会津独自のものだとはいえないことがわかります。
いまのかたちができたのはおそらく明治末期以後のことであります。明治期の末期に会津の郷土料理としてのこづゆが完成したと見ても間違いないようです。それ以前は季節のものを細かく刻んで、あまり材料にはこだわり無く煮ているような印象を受けます。
そういう意味ではこづゆは会津人が育て上げてきた郷土料理といえるかもしれません。
料理はどうも時代により流行があるようですし、当然消えてゆく料理も出てきます。またその土地土地で進化してゆきます。又交通の発達やの環境変化にも大きな影響を受けやすいものでもあります。
磐越西線の開通の頃に新潟からたくさんの海産物が入荷するようになりその頃にこづゆも今の形に落ち着いた事が見て取れます。

| 02.親父と「出会い」 03月21日 14:44 |
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後の世になるものですが、この小笠原流の許状が会津各地に残っております。ほとんどが巻物や写本の形をとり、書かれた年代は長時の時代から150年以上も後の江戸時代も中期のものがほとんどであります。
おそらく会津藩校日新館以後のものがほとんどです。
この中身を見ますと当時の侍の生活の規範になった考え方がどのように形成されてきたのかが、きちんと証拠として残されている事を見ることが出来ます。
巻物を解き読んでまいりますと、その多くは古事記伝説から始まりまり、真言密教の梵字、それから中国から伝来した陰陽五行説。道教の考え方仏教説話、それらがひじょうに難解に並んでおります。
かくがくしかじかにて我が流の奥義はここのあるといわんばかりであります。しかしながらそのなかでも、形から多くの影響を受けたのは、禅宗の坊さんの食作法や供応形式である事は、まちがいありません。

| 02.親父と「出会い」 03月19日 13:24 |
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しかしそういうことを可能にした自然環境というのもあります
皆さんもこの地に暮らしてみて感じることと思いますが
会津は内陸部、① 冬積雪はあるものの比較的温暖な地域
②台風などの影響をあまり受けにくい地域
③1万年前は湖だった会津盆地の堆積層が形成する豊かな土壌
③日本海へ流れる鮭や鱒などの河川の恵み
というような自然環境のおだやかさもその大きな理由であると思います。しかしそののち会津の食文化も複雑で様々な影響を受けながら形を形成してまいります。
それが記録の上で少しずつ出てきますのが室町時代の塔寺異本長帖のなかの記述です。長禄年間の記述に松本肥前という豪族を赤飯と素麺でもてなした記述がございます。これが私が見たもっとも古い食事の記録であります。
もう少し明確になるのは戦国期を待たなければなりません。室町それ以前、日本に物を煮るという食文化が定着するのは鎌倉期とも室町の初期とも言われています。
今日話題になっております、こづゆもいわば煮る料理です。物を煮るためには「鍋」という道具が必要です。この鍋は鎌倉時代に中国から禅宗の伝来と共に伝わったといわれています。当時の武士階級は鎌倉幕府に見られますように禅宗の物の考え方や生活様式にいたるま、影響を受ける事となります。
特に会津は時代が下がりますが、芦名の時代に後の世に日本の生活様式の規範となる小笠原流の洗礼を早く受けた事がわかっています。東山慶山の大竜寺に小笠原流中興の祖、長時のお墓が残っております。時間がございましたら一度訪ねてください。
小笠原長時という人物は信州松本に勢力を持つ戦国大名でありました。なぜ会津に小笠原長時のお墓があるのかといいますと、今NHKテレビドラマで、話題の武田信玄が山本幹助の采配の元、信濃侵攻を企てる話を放映しております。
ところが当時信濃の国の戦国大名小笠原も源氏の流れを汲む名門、壮絶な戦いをして抵抗を致します。
武田を苦しめますが、やがては戦いに敗れ越後に落ち延びます。
上杉の食客となります。この一族の中から徳川の家臣として仕えたものが後の九州小倉の幕末まで続いた小笠原家であります。この小笠原長時は、食客にはなったものの、謙信と折り合いが悪かったのか、どういう理由か定かではありませんが、その後諸国を浪々とした後、会津に入ってくるわけであります。
最初南会津の河原田氏を頼りますが後ほど芦名を頼り今の稲の代(現在の米代)というところに屋敷を構えます。芦名の家中に弓、馬術、礼式、食作法など様々なことを伝えたといわれています。


当時、それらの事を民有新聞で連載を始めたわけであります。
始めると同時に一番先に反応したのは、大学で食文化を研究している先生達でありました。
一番先に専門家の先生達をあいてに講演する事になったわけであります。それから、それがきっかけになりまして、新人物往来社の「歴史読本」に執筆しております。
さて、この会津という地域は相当古い時代から、大きな権力の基盤が存在していた事は御存知のとおりです。
あの大塚山古墳や坂下町の亀が森古墳のように東北でも有数の規模の古墳群の存在はそれを物語っております。
磐梯町に存在した巨大な仏教文化の遺跡、恵日寺などもこの地方の大地の恵みの豊かさの裏づけが無ければありえなかった話であります。
最近では坂下町で発掘されました陣が峰城の出土品などを見ますと12世紀という極めて記録の無い時代にも、相当大きな権力が存在した事がわかってきました。おびただしい青磁や白磁、それも中国大陸から伝来したものばかりが大量に出土しました。
その後も中央の権力と直接的な結びつきが強い勢力の政治支配が長く続く事になります。私達、会津人の祖先はそういう歴史的な背景の中で「命の継承」という壮大なドラマを演じてきた事になるわけであります。

| 02.親父と「出会い」 03月17日 23:48 |
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こんにちは
今日は私のようなものをお招きいただき大変恐縮しております。今日はわたしたちの祖先は何を食べてどのように「命の継承」をしてきたかということにつきましてその一部をお話させていただきます。
そもそも私が会津の古い時代の食事に興味をもったのにはきっかけがありました。それは会津の老舗にお店などに展示してある会津絵やあるいは鉄さび椀という漆器を見てからでした。
これらの会津の古い時代につくられた漆器の美しい器物にはいったいどのような料理がもられたのだろうか。
当時修行から帰ったばかりの私はそれらをみて、想像ばかりが夢見る如く膨らんでおりました。
こづゆや鰊だけではないはずだ。それが知りたいと思ったわけであります。調べ始めますとあちこちの資料館や旧家から出てくるわ、出てくるわぞくぞくと出てきたわけであります。
調査を続けておりますと。この分野ではまだ誰も手を出していない事にやがて気づきます。今だから申し上げられますけれど当時の食文化に関する歴史的認識はかなりいいかげんなものでした。
会津の鰊や棒だらの料理はあるのは京都守護職の時の影響だろうとか。何かそんな言い方致しますと、みんながなんとなく納得してしまう風潮がありました。
ところが古い時代の記録を調べますと、そこにはまったく予想もしない世界が展開しておりました。